社会人生活にうんざりしてしまった、自分はまだまだ若いと思っている人たちが、これからやるべき20のこと。

社会人生活にうんざりしてしまった、自分はまだまだ若いと思っている人たちが、これからやるべきことは、こんなことじゃないでしょうか。

所説はあるにせよ、人間の脳はその三十パーセント程度しか使っていないのだそうで、とどのつまりは、残りの七十パーセント近くはリミッターをかけて制御しているのだそう。
こんなことを知ってしまうと、ゾクゾクしませんでしょうか?

だって今のこの世界に生きながらにして、ブチ当たってしまっている天井やら、乗り越えられない困難やら、どうしようもないと諦めてしまっている難題やら、その全ては所詮、リミッターにより制御された能力しか発揮できていない自分による仕業なわけだ。

それらのことは本来の意味に置き換えていうと、乗り越えられないと思い込んでいる困難であり、どうしようもないと思い込んでいる難題なわけだ。俗にいうリミッターをカットした自分が、それを壁と感じるかどうかさえも、本当は、分からないのである。


人は自分の可能性を自分の中で狭めて行くことで、結果的に自分を追い詰めたり、追い込んだりしてしまう生き物だと思う。

イジメを苦にしてその命を自らで絶ってしまう悲しい出来事が絶えないが、あの若者たちに、「学校にいることが全てじゃない。学校以外でも生きていくことなんて、いくらでもできるし、やり方はこうだ!」って、具体的に逃げ道(苦難からの逃げ道で、人として逃げているわけじゃない)を与えてあげることができて、そこにその若者たちが、生きていける可能性を感じてくれたなら、命を絶つという選択肢を排除してくれたかも知れない。

大人になっても同じこと。自分にはこの道しかない、この会社しかない、この仕事しかないと決めつけてしまうことで、我慢しなくてもいい厄介ごとやら、受け入れなくてもいい理不尽なことをその背中に背負い込み、苦しんでしまっている人も多いんじゃないかと思う。

会社に行きたくなくて、無断欠勤の言い訳として、二十代の女性が緊縛強盗を自作自演したというニュースがあったが、なぜにそこまで精神的に不自由になってしまうのだろう、この社会は…と悲しくなってしまう。


だからもう、リミッターカットするしかない。

僕は脳科学者ではないので、科学的根拠のあることはひとつとして言えないが、自分の中での感覚として、自分の知らない自分に出会うことができれば、いともたやすく、リミッターなんてブッ飛ばせてしまうんじゃないかと考えている。

可能性というのは、自分の今いる延長上にいる限り、一般的にはどんどんと低くなっていくもんだと思うから。
歳だってとるし、体力だって衰えて行くし、容姿だって醜くなるし、加齢臭だって出てくるし。
だから、自分の延長上ではないところへ、自分が飛び込んでしまえば、その世界では自分は未知の存在になれるわけだから、未知の存在にそもそも可能性がどの程度かなんて、オッズも倍率も何もない。つまりは、新馬戦を走る競走馬になれるわけだ。ヒヒーン。


とは言ってみても、昨今、新しい自分を探すといった主旨で、転職を勧めたり、資格を取ることを煽ったりする傾向があるが、ああいうことに流されちゃいけない。

適職?自分に適しているかどうかを考えてる時点で、早くも可能性を狭めていく可能性が十分にある。それでは二の舞になる。

人気の資格?世の中の人気やら、職に就きやすいという理由など、やたらめったら現実的な理由で、新しい世界に飛び込むもんじゃない。そんなところには既に手垢にまみれた現実がふんだんに用意されていることだろう。

なので、リミッターカットを望む諸君。とどのつまりは、君に選択肢はないということ。脳の僅か程度しか使えていない今の君には、新たな道を選択する資格さえないということ。

だからまずは、世の中に存在する既知、未知、無知な物事、やってみたいことやただ単に知っているだけのこと、趣味でもいいし職業でもいい。それらを無作為に且つ無造作にピックアップしてみよう。無作為、無造作というところがポイントだ。君の狭められた視野の中から飛び出した選択肢を用意するために。あとはそれらの物事を日本列島の図柄の上にでも並べ、ダーツでも投げて、刺さったことを試してみればいい。

思いもよらない結果が出たとしても、怯んじゃいけない。そこにリミッターは不要。
未経験のこと、苦手なこと、嫌いなこと、不安なこと、不満なこと、子どものやること、異性がやること、そんなことはどうだっていい。
これまでに積み上げてきた人生の中で、君自身が向いていると考え、好み、慣れ、得意になって、自分の聖域だと考えている場所で、君はがんじがらめになっているんだから。
そうやって自ら固めてしまった道をいったん外れて、自分の可能性を飛び出してみることが大切だから。


本来の自分には何が向いているのかなんて、生きている間は分かりっこない。だから僕は、履歴書や面接などで、自分の長所や短所を言わせる制度が、クソほど嫌いだ。
自分の長所や短所を自分で理解している人間なんて、不自然過ぎて気色悪い。容姿は鏡で確認できても、自分の人となりを映す鏡なんて、ないのに。

だから、どんどん知らない世界へ飛び出して行けばいいと思う。なになに?「そんなことしたくても、金がねえ!」「そんな時間あるかい!」って?今の現実が辛くて逃れたいんなら、知らない世界へとテイクオフするために、ちょっとくらい頑張って、お金を作ってみようよ。浪漫飛行へのチケット代は、そんなに高くないはず。


普通に生きていて、たくさんの選択肢を持って、のびのびと、精神的に追い詰められることを知らずに生きている人も、社会にはたくさんいる。それは事実だ。

才能のある人や、恵まれた環境に生まれ育った人、運のいい人など、いくらでもいる。
そういう人は、やっぱり選択肢が多いんだ。まるでターザンのように、次の場所へ行こうとする時、次のツタをしっかりと握り、ちぎれないことを確かめてから、安全に次の場所へと移って行くんだ。
もちろん人間だから、そういった人たちにも、不安や心配はたくさんあるだろう。でも、安全のレベルが違うのと、保険がたくさんついているんだな、そういう人たちには。

片や、そうじゃない、ごくごく一般的な人には、そんな安全なツタもなければ、人生に対する保険など用意されていない。だから、初めに持ったツタだけを頼りに、そのツタの可動範囲から見える景色だけを可能性と信じ、巻き起こる全ての苦難や難題やトラブルを、そのツタを離さず対応するしかできない。そうした果てに、息苦しくなってしまうんだ。


火事場の馬鹿力という言葉があるけれど、つまりは自身のその力に出会うために、我が色に染まった道から跳躍してみよう。
薄明りに照らされた出口のない迷路を彷徨うから人は絶望してしまう。未知な世界に飛び込んでお先真っ暗になってしまえば、後は自由に手探りするだけ。
そうやって辿り着いた先が、安住できる一軒の立ち飲み屋だということもあり得る。だから僕はもうしばらくこの店にいて、安酒を煽ることにする。幸いなことに、人生の道のりを歩むことに、飲酒運転はないようだし。

社会においては基本的に、上の人間に目線を合わせて生きるのが常であるように思う。
『上から可愛がられる』『上に認められる』といった風に、上を意識して生きていると、社会では何かと恩恵が多いようである。

が、しかし、上の人間などを意識して生きていても、社会ではそれなりに、オイシイ(と勘違いできる)ことが待っているのかも知れないが、ごくごく一般的な人間として生きていくにあたっては、全く不必要でいて、害しかないことのように思う。

そこで僕はこう思うわけである。

自分よりも年齢の若い人たちを大切にし、できるならば、そういった人たちと多くを語り合いなさいと。

社会では、年齢の若い人たちとばかり過ごしていると、確実にナメられる。やはり要所要所で、上の人間と呼ばれる人やら、権力者やら支配者やらと接点を持っている人間の方が良しとされる。
それは人脈的な意味合いが大きい。だって、巨大な人脈を持っている大御所と関係を持っていれば、その人脈をあたかも自分のものと勘違いできるもの。

その逆で、だから、新米社員などと仲良くしていても、人脈など皆無である。人生経験も浅く、仕事の経験もないとくれば、大半の『上』を目指すような社会人にとっては、若い人間との付き合いよりも、そりゃ、利得が得られるかもしれない人間と付き合うのが常とされるわなあ。

でもしかし、若い人たちは、とても魅力の塊なわけです。だって、一度失ってしまうと得てして二度と取り戻すことができない『初心』というものを、俄然バシバシ振り回して生きているもんだから、その様はとても爽快で、それを間近で見ていると、自分自身も失ってはいけないことに日々気づきながら生きられる。ありがたい。

また価値観にしてもそう。
妙に世間に慣れ腐ってしまい、長いものに巻かれることしか考えていなかったり、保身しか頭になかったりと、そういった邪な念がないものだから、価値観や物事に対する判断が、とても澄んでいる。そういう価値観も、一度失ってしまうと二度と戻ってこないと思うので、とても貴重なんだなあ。

他にも、そういった人たちと一緒に過ごして、意見や主張を聞いていると、文化に対する感受性や物事に対する感覚が、老わずに済む。

オヤジギャグ一辺倒になってしまったり、同じ話を何度もしてしまったり、服装や髪型がダサくなったり地味になったり、音楽や芸能について疎くなったり、昔ばっかり懐かしんでみたり、武勇伝ばかり語ってみたり、周りの人間に愛想笑いばかりを迫らせたり、そういった『老けた』ことをしなくても済む。

人が歩むレールってのは奇妙なもので、これらこういったことを、一度でも失ってしまう、忘れ去ってしまう、感覚の老いの世界に一歩でも踏み込んでしまうなどすると、二度と取り戻せず、思い出せず、後戻りもできないシステムになっているようだ。ああ、恐ろしい。

で、上の人間と呼ばれるような人間に取り入ってみても、人としては何の得もないと思う理由については、シンプルで、そう、彼ら彼女らには、人としての魅力がないからである。

想像してみてごらんなさい、あなたが今、脅威に感じているような大御所さんも、地下鉄に乗って、若いギャルの前などに立ってゴトゴト揺られてみれば、ただの薄汚いジジイである。何のオーラもない。むしろ、ギャルに臭がられキモがられ、邪魔者扱いされている。
そう、それが、世間だ。
肩書きや権力や地位や金を、スッと取り除いてみれば、人間はどいつもこいつも、まっとうな評価を受けることになる。

いいかい?上の人間ばかりを見て生きていると、不純な臭いしか嗅ぎ別けられない嗅覚の持ち主に成り下がってしまうぜよ。

自分にとって影響力のないと判断した人間を踏み台にすることが得意になり、ロイター板の使い方ばかりが上手になり、おい、お前、跳馬種目で次回のオリンピックでも目指す気かいと、周りから訝しがられること間違いない。

そして、常日頃から、年齢の上の人間の話、意見、主義主張ばかりを耳にするもんだから、考え方が老けてくる。価値観が古くなる。感覚が錆びてくる。冗談がつまらなくなる。
上の人間の話を聞いていて得られるメリットなんざ、そいつらの年代の歌謡曲に強くなれるくらいのもんじゃないだろうか。おお、なかなか魅力的なメリットじゃないか…。

大体、世の中には常に新しくフレッシュな人間たちが次から次へと入ってきているはずなのに、社会の通念や価値観やシキタリやルールや決め事や規制や道徳観念、倫理感といったものが、ずっとずっと古臭く旧態依然のものであることに疑問を感じないだろうか?

それは完全に、上を見ながら生きている人間が多く、上に合わせて、上に従って、上を正しいとし、上に巻かれながら、上の利益を吸いながら、上の真似事をして、上のやり方を下の人間に押し付けながらやるもんだから、何ひとつ変わってなんて行くはずがない。新陳代謝も、しようがない。活性化なんて、するはずもない。

これだけは思うんだ。
上の人間たちは、好き放題言ってるよ。「こいつはこうだから、こんなことを言ってやろう。あいつはああいう奴だから、こっちの話をしてやろう」とか、親身になった話ばかりをしてくれてるわけじゃない。大御所ともなれば、出会う人間の数も相当多いだろうから、いちいち、ひとりひとりを区別、判別してなんて、接してくれていないよ。

でも、彼ら彼女らが、その群れの中から、ひとりの人間の顔やら存在を区別、判別して接するときが、ある。

それは、利用できる、と思ったときだ。

「こいつは利用できるなあ」と思われたら、そりゃ可愛がってもらえると思う。他の取り巻きたちよりも、身近に置いてもらえると思う。それはさぞかし気持ちいいことだろう。
でも、そんな判断基準で選ばれた人選なんだったら、『もっと利用できる奴』が現れた瞬間に、その座は失脚させられることになる。
そいつらの都合ひとつで、君の人生が振り回されることになる。
そうやって振り回された結果、負わされた傷とそれまでに得た自分にとっての利益、利得の差額を勘定するような、そんなお粗末な人間にだけはならないで欲しい。

ごく稀に、はるかに年齢が上の人でも、すごく目が輝いていて、まるで自分と同じような感覚で接してくれる人がいる。そういう人は、ほんとに尊敬してしまう。
自分が既に失ってしまった部分などを、そういった人たちと話をしたり聞いたりしているうちに、気づかされてしまうという。自分よりもはるかに人生の大先輩なのに。
自分もそんな風な人間になりたいと思うわけである。

まあ要するに、楽しい人たちと楽しい付き合いをするのが、楽しい人生を送る秘訣なんじゃないかと思うわけで、だから、付き合いに、利益も利得も必要ないでしょう、と。

そんなこんなで本日も、値段の安さだけが売りの酒場で、ありがてえありがてえ言いながら、パンクロックの話なんざしながら、オンザロックではなく、小麦色に輝くビールをひたすら呑んでいる。嗚呼、これ以上の至福がどこにあるというのだろうか。

今日も気づけば、財布には小銭しか入っていないや。

社会的地位や社会的立場が高くなってくると、人は幼稚園の頃に教わった大切なことの数々を、すっかりすっぽりと忘れていってしまうもんだから、困ったものである。

得意先と取引先というものがあって、いわゆるお仕事をいただく方々と、お仕事を手伝ってもらう方々である。
お仕事をいただく方々も人であり、お仕事を手伝ってもらう方々も人である。そして、自分自身も、人である。
にも関わらず、人間というものは、浅ましい生き物だから、メシを食っていかなければならないという一心から、ついつい得意先という存在を殊更に大切にしようとしてしまう。
ここが大きな落とし穴だ。

社会的な地位が高くなっていくことよりも、人として温かみがあって、尊厳があって、果てには、「ええおっちゃんやな、ええおばちゃんやな」と言われるほうが、なんぼか豊かな人生を歩めたことになるはずだ。
そのためには、人を立場や地位で、上だの下だの推し量らずに、得意先や取引先やと区別せずに、自分に関わる人には、みんな思いやりを持って接しなはれということ。
要するに、取引先を大切しなければいけない。
そう、業者さんや下請けさんを大切にしなければならないというか、言ってしまえば、社会よ、もっと俺に優しくしろ!と、そう言いたいわけである。

相手を業者だと思うや否や、高圧的、無理難題、阿呆なことを連発し、押さえつけるような方々が、社会にはたくさんいらっしゃいますが、どのような神経してはるのか、全くもって理解ができない。
そんな薄汚れた生き様をして、家では、自分の息子やら娘やらに、

「人のことをキズつけちゃいけないよ。相手を殴るよりも、殴られるような、そんな大きな人間になりなさい。周りのみんなに優しくね!」

などと、穏やかな笑みをつくりながら、子どもを諭したりしてるんだろうなあ。
ふざけるな、ボケ!一歩社会に出たら、人のこと容赦なく殴りつけとるがな、君!子どもに言うとる場合か!
と、その茶番にメスのひとつも入れたくなる。

そんな奴らに限って、テレビ番組で、恵まれない人たちや、社会的に弱い立場の人たちを特集したドキュメンタリーなど見たときに、ひと一倍哀れみを浮かべてみたり、妙な正義感を出してみたりする。
君が日々接する、君が下に見ている人たちに対して、何の手も差し伸べられないような奴が、救いを欲している人など助けられるかい!と。

「自分がやられてイヤなことキズつくことは、他人にしちゃいけないよ」

といった幼稚園の頃の教えが未だその心に刻まれているとするならば、君が日々やってることは、自分が逆にされたとしてもイヤじゃないってことになるね、じゃあ一度、ご体感くださいませ、となるわけだ。

だからといって、シマりなく、甘くて緩くて温い付き合いをしようじゃないかと言ってるわけではない。
お互いがプロ意識をもって、厳しく、情熱をぶつけ合いながら、一緒にええ仕事をしましょうよと、そう言いたいわけである。

「俺のほうが偉いねんから、俺の言うこと何でも聞けやい、この下っぱ、小童!」

というような幼稚な考えが、一ミリでも介在していると、ええ仕事をしようにも、それが邪魔して、妙な不具合をきたすことになる。

前提としてもう一度、おさらいすると、得意先の方々も、僕も君も、取引先の方々も、みんな人です。なので、ピストルで撃たれたとしたなら、みんな死んでしまいます。なぜなら、みんな人だから。猫に噛まれたら、みんな痛いです。なぜなら、みんな人だから。

飲食店などで接客サービスを受けるときに、やたらめったら横柄な輩がいる。まるで、

「俺、お前の店、来たってるねんぞ」

とでも言わんばかりに。
そんな時、僕は心の中で、吉本新喜劇の如く、

「誰もお前に来てくれ頼んでない」

と、即座にツッコミを入れたくなる。
ここが取引先の方々を愛する人間になれるかどうかの境界線なのである。

魚料理の店に来たとしよう。
そして、てめえが客としよう。
魚を釣ってくれる人がいなければ、てめえは魚を食べれないし、それを調理する人がいなければ、もちろん、てめえは美味しく魚を食べることはできない。
その食器を作る人がいなければ、お皿やお箸だってないし、調理場からホールに運んでくる人、調味料を作る人、店内の照明、奏でられるBGM、テーブルクロス、果てには、魚を釣りに行く漁船、その全てが、てめえじゃない誰かが作ったものであり、その集大成が、今、てめえの目の前に置かれている、素晴らしい料理なのである。
なので、てめえは、ただそれを、食べさせてもらっているだけの、ちっぽけな存在なのである。てめえのすることは、ただ、食した後に、お金を支払うということだけである。

ナニナニ?資本主義社会では、てめえではなく、てめえのことを、神様と呼ぶっていうのかい?屁理屈をこねる輩は、そんなことを武器にもしてくるだろう。さらには、

「そんなもん、そいつ以外にも作れる奴、世の中探したらどこにでもおるねんから、別に誰でもええんじゃ、できる奴やったら誰でもええねん!そいつがあかんかったら、誰か他にやらせ!」

などと、阿呆なことを言う輩も出てくるだろう。
そうは言っても、てめえが今、その瞬間に味わってるそれは、その人たちがおったからこそ、受けられた喜びやろがい!と。

なので僕は、得意先の方々よりも、取引先の方々に対するお辞儀を深くするようにしている。
それは仲間意識によるものなのか、感謝の気持ちの表れなのか、何なのかは自分でもよくわかっていないけれども、とにかく深くお辞儀をして御礼をいうようにしている。
すると、取引先の方々も、皆さん人ができた方ばかりなので、僕のお辞儀に対して、さらに深く懇切丁寧なお辞儀を持って返してくれる。ありがたい。

でもそうなると、取引先の方々よりも深くお辞儀をすると決めている自分の礼法に反してしまうので、さらに僕はその方よりも深くお辞儀をする。
すると相手も負けじと、もっと深いお辞儀で返してくれるもんだから、僕はもう地面に顔をつけるほどの深いお辞儀を持って礼法を貫く。相手も負けちゃいない。もう地面に顔がついてしまっている。こっちだってと、地面に完全に寝そべり、カエルのような格好をして御礼をいう。
なので、僕と取引先さんとの挨拶の際には、お互いが地面にペタッと寝そべって、へばりついた状態でお礼を言い合うという、とても奇妙な光景が繰り広げられる。

取引先さんとの挨拶の際に、地面に寝そべったことで、誰かが落としてしまったであろうコンタクトレンズをこれまでに三枚ほど拾った経験がある。

ごくごく一般的な社会人生活を送っている人と、ごくごく一般的じゃない社会人生活を送っている人、例えば、タレントやアイドル、ミュージシャンや作家や、さらにはカリスマ美容師や客足の絶えない繁盛店でサービス業を営む方々。
どちらがどうなどと優劣をつける気はさらさらないけど、その決定的な違いは何かと考えたときに出てきた答えが、これ。

『日々受け取るありがとうの数の違い』

きっと、これだ、これ。
僕たち私たち、大多数の社会人の方々は、日々、ありがとうなどほとんど受け取らずに、怒られること責められること詰められること疑われること、その数のほうが圧倒的に多いはず。だから卑屈にもなってしまう。

お客さんにこよなく愛される飲食店に足など運んでみると、調理をするスタッフさんたちの表情、これがとても輝いていて、眩しすぎて、キラキラしていて、思わずサングラスを着用したくなる。
スタッフさん同士がかけ合う声も弾んでいて、合間に聞こえる雑談の会話も、とても軽妙でいて、とてもハッピーな気分になる。ありふれた言葉で言い表すとするならば、そこへ来れば『元気をもらえる』という感じ。
そしてその弾んだ中に垣間見えるのは、自分の店の味やらサービスやらに誇りを持って働いているという姿勢。アティチュード。
そんなにもパーフェクトなサービスを受けて人は、何をも差し置いて、その方々にこう言うだろう。

「とっても美味しかったですわ。今日は本当にありがとう。また来ますわね、ウフン」
当然だ。

カウンター越しに眺める『輝いて働く姿』と、自分の日々の社会人生活を重ねてみると、小狭い穴に入って身を隠したくなるくらいに恥ずかしくなってしまい、なんとまあ自分は、来る日も来る日も死んだ魚のような目をして、塞ぎこんで、鬱屈し、陰気臭く辛気臭く、ジメジメと働いているのだろうかと。
目の前でジューシーに焼かれるホルモンたちと一緒に、七輪でええ感じに焦げがつくまで焼かれてしまえばいいのに、と。

ただ、ここで負けてしまっては、自分の生き様に反旗を翻すことになってしまう。
彼ら彼女らは、『直接』にお客さまからありがとうを貰える職業についているに過ぎない。
となると僕たち私たちは、お客さまから『間接的』にありがとうを貰える職業に従事している、選ばれし者だということになる。ぐひひ、なんか、カッコいい。

伊坂幸太郎著『アヒルと鴨のコインロッカー』の中で、こんなフレーズが出てくる。
「自分の売った靴を履いて、それで誰かが一日を生きているんだな」と勝手に想像して幸福感を得ることも、僕にはできる気がする。

まさにこの感じである。勝手に想像して得る幸福感というところが、我々社会人にとって欠けている部分なのだ。そうだ、そうだ、幸福感なんて、勝手に感じてしまえばいいんだ。それで自分が幸せだったらいいんだ。

例えば印刷会社に勤務している人だったらば、自分が手がけた十万枚のチラシ印刷。仕事としてみれば繰り返す日々の仕事のひとつかも知れない。だけれども、その時その場で伝えたいメッセージが刷り込まれた印刷物を、最大ならば十万人の人が手にして、目にして、読むことになる。そりゃ、ありがとうの数も、行列のできる人気ラーメン店の何倍も多いだろうよ。

また僕のように商業的なデザインなどをさせてもらってる身分からすると、芸術的なデザインをやられている巨匠たちが、

「先生の創られる作品は、やはり独創的で、大胆且つ繊細でいて、男性的な中に女性的な部分が包含されていて、観る者の興奮を煽りながらも、落ち着いた気持ちにさせる、スピリチュアルで高貴的で躍動感に満ち満ちている。とても素晴らしい!」

などと広辞苑からつまみ食いしたような単語の羅列で褒め称えられるのとは対照的に、作るもの作るものに対し、

「うーん。思てたのと違うなあ。話が伝わってないなあ。これじゃウチの商品、いっこも売れまへんで。売上をな、百倍にしたいんや。だから、売上が百倍になるようなデザインにしてくれて、あんたに頼んだやろ!もうちょっとここの一センチ空いてるスペースに、文字百文字くらい詰め込むとか、ウチのメインキャラクターをど真ん中にデカデカと配置するとか、おたくもデザインやっとるんやったら、それぐらい理解できまっしゃろ!」

と、お客さまは神様らしいので、どのような罵詈雑言もゴールデングローブ賞をも狙えるほどの守備力で受け止めはしますが。

ただ、そんな商業デザインでも、最果てに受け取るのは、エンドユーザー、つまりはお客さまひとりひとりなのだ。
そのひとりひとりは、ひとつひとつしっかりと『ありがとう』を言ってくれている。口には出さないかもしれない。受け取ったポスティング用チラシを、すぐにその場で、ゴミ箱にポイッしているかもしれない。ただ、受け取ったその人の体内の細胞、果てにはDNAのどこか一部分は、必ず、感謝の気持ちに震えていることだ。
そう思うと、自分の仕事に誇りを持てる。

誰かに何かを届けるわけではない職業に就いている人も、たくさんいると思う。
そういう方々はどうやって勝手に幸福感を得ればいいのかというと。

『ありがとうに包まれて生きている』

ことを実感しながら働くことをオススメします。

あなたが日々使っている、パソコン、キーボード、マウス、電卓、デスクもチェアも、もっというならば、ティーを飲んでいるティーカップやら、クリップのひとつひとつ。
これらは、どこかの誰かさんの誇りが詰った立派な作品だ。これを作ることに身を徹し、生計を立てている人たちの物語が詰っているのだ。

今あなたが使っているデスク。その出荷担当の人にとっては、それが現役引退最後の作品だったかもしれない。一人前としてひとり立ちした最初の作品だったかもしれない。そのデスクを出荷するにあたって、男同士が、ひとりの女をめぐって争いを起こしていたかもしれない。

それを作った人は、今あなたに使ってもらっていることで、きっとこう言うだろう。

『ありがとうございます』と。

そんな大量の『ありがとうございます』に包まれて働くあなたは、まるで競技場の観客たちのスタンディングオベーションに包まれながら、世界記録を狙うアスリートと、何ら変わらない。
そう思うと、自分の仕事に誇りが持てる。

バカヤロウ!あんな机やら椅子やら、大量生産のものに、作品もクソもあるかい!
と、冷笑することなかれ。だって、商業デザインだって、型を押しつけられた大量生産だよ。規制・制約の中でしか泳げない、不自由な成果物だよ。
でも人は、いろんな思いを込めて、それを作っている。たとえ機械がそれを作っていようとも、検品の際には、作られたものを真心こめて精査する。
そんな思いを無碍にし冷笑する奴には、そいつの一張羅にチューイングガムでも張り付けて、使い物にならなくしてやる。

そもそも、残業する人間が偉い、休日も働く人間が偉い、徹夜して働く人間が偉いという日本の風習は、いかがなもんかと思う。
ヨーロッパでは基本的に残業などしないらしいし、聞くところによると、人生を楽しむためのお金を稼ぐために仕事をしているんだとか。
日本で働く皆々様方も口々には、

「仕事なんてやってらんねえわ」
「働くの、大っきらいや」
「早く帰りてえ」

などと愚痴めいたことをこぼすくせに、そんな奴に限って、いつまでもダラダラと事務所に居残り、お前が自分の意志で残っとるんだろうがい、とツッコンでやりたくもなる。

仕事ができない奴だからこそ、勤務定時内に仕事を終えられずに残業になっている可能性だってあるはずだ。
仕事の処理能力が低かったり、スピードが遅いがために、平日の勤務では仕事が終わりきらずに、休日まで働いているという奴もいるはずだ。

そんな奴らの数倍仕事ができる奴ならば、同じ仕事の分量を分け与えたとしても、定時内に余裕で仕事を終えることができるんじゃないだろうか?
となると、優秀な人間が定時内にテキパキと仕事を終えることは、残業代やら電気代など、人件費、経費の削減にもなる。

「いやいや、俺の仕事はそんな定時内で終わるようなボリュームじゃねえんだぜ」

と、そろそろ出始めた加齢臭をプンプンさせて息巻いてくる輩もおるでしょう。
でも考えてみると、それぞれの社員に対して業務負荷が超過しているってことは、会社が、抱えている仕事量、利益を生むための仕事量に対して、適正な社員数を雇っていないことになるため、その会社の利益は、個々人が、一般よりも多くの負荷を耐え続けているがために利益が出ているのであって、つまりは、儲け方が下手クソな会社ということにもなる。

さあ、本題に入ろう。

定時が過ぎれば、疾風の如く帰ってしまおう。
誰の目も気になどせず、日本の風習、日本社会の通念など無視して、そそくさと帰ってしまおう。

今自分がやっている仕事が、自分の人生をかけてやり抜きたいと思えるほど、日々充実した仕事に就いている人は、もちろん寝る間も惜しんで仕事をすべきだと思うのだけれども、もしそうでないならば、とっとと帰ってしまおう。自分の時間は、自分の一生は、自分の手で充実させねばならないのだから。

人の目を気にして会社に居残った時間、周りが働いているからと、それに隷属するように費やした、貴重な時間、貴重な休日のその時間の積み重ねを考えてみると、どうだろうか?
寿命が果てて死に行くその日、横たわるベッドの上で、そんなことをぼんやり考えたとしたならば、きっと、自分が無駄にした時間に対する後悔に打ちのめされることだろう。

そんな風に無駄にした時間を、全て違うこと、何かやりがいのあることに費やしていたとしよう。
もしかしたら、資格のひとつも取れたかも知れない。もしかしたら、遅ればせながらオリンピックだって目指せたかも知れない。歴史に残る発明をし、ノーベル賞だって取れたかも知れない。
その可能性を人は皆、他人の目を気にしたり、あるかどうかさえ分からないような、常識やら当たり前という概念に縛られて、投げ捨ててしまっているのだ、自らの手で。
もうそろそろ、ええ歳こいたみんなは、そんな愚行からは卒業せねば。

ある先輩社員にこんなことを言われたことがある。

「お前さんが仕事がよくできるのは、よく分かってる。でもな、そんなに毎日毎日早く帰ってると、周りの印象が良くないぞ」

はあ?周りの印象?俺は別に、周りの印象を良くするために生きてるわけでもないし、別に欲しくもない周りからの好印象のために、自分の貴重な時間を献上する気なんて、さらさらないぜ、このアホンダラ、と。

その先輩社員は、僕のことを思って、僕のために、そんな風なことを言ってくれてたんだろう、山の湧き水のように澄んだ目をして、何の疑いもない素振りで、おっしゃっていただいておったので。
しかし、その目は、社会に洗脳されきった瞳のような気がして、むず痒くもなる。

なので、覚悟しなければならないのは、毎日定時帰りなどしていると、周りの人間からの、妬み、嫉み、僻み、蔑みを喰らうことは間違いない。
日頃はニコニコと笑いながら接してくれる社員たちも、その実、心の中では、

「こいつ、いつも早く帰りやがって」
「仕事の少ない部署の人間は楽でええのう」
「仕事を舐めてるな、こいつ」
「会社に貢献してないくせに給料貰いやがって」
「楽しやがって、こっちの身にもなってみやがれ、ボケ」

とドロドロと思われることは間違いない。

全ての社員が、定時帰りする自分と接するときの顔、それは仮面で覆われた作られた人格で、本音の部分では、そんな風に忌み嫌われてしまう。
さらには、そういった人間たちが集まる飲み会やらの席では、必ずといっていいほど、定時帰りしている人間へのバッシングが始まり、そんな奴らは、そういう行為を続けることで、キズの舐め合いをし、キズを癒し合い、歪な結束を固めていくのは必至。

そう考えると、定時帰りというのは、同じ会社の人間から受ける見えない憎悪と、貴重な時間を大切にし、自分の人生を輝かせることとの、ある種の対決なわけだ。
それに見事打ち勝って、共にノーベル賞を目指そうじゃないか。共にオリンピックを目指そうじゃないか。

人に用意された時間は限られている。だからこそ、その時間は、人の目など気にせず、何にも縛られることなく、自分のためにしっかりと使おう。
そうすれば、少なくとも、昨日と同じような今日、今日と同じような明日がやって来るのではなく、昨日は昨日の楽しみを、今日は明日は明後日は、その日なりの楽しみを思い出に変えて生きて行けることだろう。

そういえば、スーツのズボンにクリースという折り目があるもんだということを、最近にしてようやく知った。
クリースはパンツの両足中央部に入れられた折り目のことで、パンツに立体感を与え、足のラインを長くキレイに見せる効果があるらしい。

自分のズボンにふと目をやると、クリースがない。初めはあったのか、もともとないのかは定かじゃないが、ともかくクリースが消えてしまっている。
クリースがないくらいでスーツを買い替えるほど裕福ではないし、そりゃ来る日も来る日も同じスーツと同じズボンで働いていれば、クリースなんかどこかへ行ってしまうのも当然だろう。

ただ、僕の足が人よりも短くて見た目が劣っているのは、クリースがなく、足のラインがキレイに見えていないだけで、全てがクリースの仕業だったということが判明して、ただただ安心するばかりである。

食べなれたうどんの味に物足りなくなったら、何をかけるかといえば、七味。
今ひとつグッとこないカレーライスには、さらなる刺激を求めてスパイスを足す。
そう、物足りなくなってしまったものには、スパイスを足していくわけです、通念上は。

そこで、手っ取り早く、物足りなさにスパイスを振りかけられる手段として、瞬く間に変えられるものがある、それは、

見た目。

そう、見た目を過激にしてしまって、毎日にスパイスを加えてやり、刺激を与えてやることが、できる。
なので、皆さん、金髪にせい!髭をはやせ!スキンヘッドにせい!ドレッドパーマあてろい!ドン小西みたいなメガネをかけい!
と、あまりに過激なことを求めてしまうと、現実とのギャップに二の足を踏んでしまうことになるので、あくまで密やかに、見た目を変えていってみる。

何も期待せずに社会人生活を送ります!というマニフェストとは裏腹なようで、その実、そうではない。

社会が変わらない、会社が変わらない、周りが変わらない、挙句の果てに、日本も変わらない。だからこそ、自分自身を変えていくしかない。いや、しかないというネガティブな発想じゃなくて、自分自身を変えるという、最大級に妙味な手段があるじゃないかと。

考えてみてくださいまし、たとえば夜景など見に行ったとき、丘から見下ろすドドンと広がるロマンチックな夜景。そんな折り、もうちょっと横に移動したほうが、より街のネオンが美しく見えると思ったら、

「あっち側のほうが、絶対にキレイに見えるべ、絶対に」

といいながら、ベストでナイスでクールなポイントににじり寄っていきますわな。
もし、絶景の邪魔をする障害物、たとえば何かの建物の屋根やら、電柱やらが眼前近くにあれば、またしても、

「これ、邪魔じゃね?これ、めちゃ邪魔じゃね?」

といって、その障害物を避けた位置に移動しますわな。まさにこういう感覚。
その場で、建物の屋根を破壊するなり、電柱をへし折るなりする輩は、まずいない。
なので、自分自身が変わっていくことは、妙味なわけでして。

で、見た目をどう変えていくのか?
もちろんそれは、前髪の分け目を変えてみたり、ワイシャツのタイプを形状記憶タイプに変えてみたりといった、マイナーチェンジではダメなわけで、しっかりとフルモデルチェンジをしないと。
イメージでいうと、社会においてタブーとされていることに、どんどんと近づいていくような変化。そう、標的にタブーを据えるというところがポイント。
成果は徐々に現れてくる。

「なんか最近、ちょっと変わったよね?」
と給湯室などでバッタリ会った社員に、やんわり言われるのが第一歩。

「ちょっとイメージと違うよね…?」
と、トイレで会った社員に、苦笑いされながら、提言のようなものを受ける。これが、他人が身勝手につくるイメージの奴隷からの脱却。

「それ、ヤバくない?」
居酒屋で同僚から、真剣なトーンでアドバイスを受ける。これが、タブーという薄汚れた沼に片足を突っ込んだ状態。

「○○君、ちょっと打ち合わせ室に来なさい」
会社でも風紀に最もうるさいとされている上席の人間に、落ち着いたトーンで呼び出しをくらう。ここからがタブーとの戦いとなる。

「いくらなんでも、そりゃやりすぎやでー」
と、会社の中でも最も優しく最も寛容とされる年配の社員の方から、やりすぎ感を指摘される。
こうなると、会社中全員から、奇妙な目つきで見られ、違和感を覚えられ、色物扱いを受けていることが確定となる。

ここが重要。

タブーの向こう側に行ってこそ、こうやって、会社の中のとある社員という位置づけから、あの頭のおかしい○○君、あの何を考えてるのかよく分からない○○さんとして、見事、メジャーデビューを果たせるわけだ。
ここから、刺激的な日々が始まる。

その昔、僕自身がこれを実践したある日のこと。
皆一様にスーツを着て、皆一様にワイシャツを着てという部分にむず痒さと疑問を持ったものだから、

「いきなり何もかも変えるってのは、少々難しいので、まずは中身から」

ということで、ワイシャツの中に着ている肌着といいますか、Tシャツを変えてみた。
だって、恋愛でも、見た目より中身が大切というじゃない。
健康に関してだって、まずは身体の中身をキレイにしようというじゃない。
だから、ワイシャツの中身を変えていってやろうと思い、真っ白のカラーのワイシャツの中に、アイアンメイデンのバンドTシャツ(通称:バンT)を着こなしていったわけだ。
真っ白のシャツから透けて見える、アイアンメイデンのバンドロゴと、おどろおどろしい屍たち、それを見つけた他部署の部長さんが、僕を小部屋へと呼び出し、そりゃ、ババをちびるくらいの大説教。

その時、僕は確信した。
今、この瞬間、僕は社会に大きな爪あとを残した。これは、歴史が動くぞ!と。

また時同じくして、僕は、三連休以上の休みが続く休み前日には、必ず髪の毛を金髪に染めるという奇行をやってのけていた。

平日と休日の俺は違うんじゃい!という意気込みを継続させるべく、休みの前の夜には、ブリーチ剤を何本も買い込み、塗りたくり、サランラップでグルグル巻きにしては、ドライヤーで熱し、金髪へと変貌していた。
見た目の部分でも、日々のメリハリをしっかりとつけてやろうという魂胆があったため。

そして平日に入ると、髪の毛の色を真っ黒に戻し、何事もなかったかのように生活をする。
生活をするのだけれども、この黒染めというやつ、少々難点がありまして、毎日毎日とお風呂で洗髪を繰り返していると、じわりじわりと、染料が落ち、金髪に戻っていくのである。

そうなるとどうなるかというと、金髪で会社に通っている大バカ者として扱われるわけ。

ある日、得意先から天下りして嘱託として働いていた横柄な相談役と呼ばれるお偉いさんに、髪の毛の色が見つかり、別室の小部屋へと呼ばれた僕は、ネチネチとローションのようにまとわりつく口調で、延々と大説教をいただいたのだった。

その時僕は、改めて確信した。
俺は世の権力者が放っておけない、むしろその芽を摘んでしまいたくなるくらいに存在感の偉大な人間になろうとしている。

ボーッと日々を過ごしているだけじゃ、こんな権力者と対峙することさえなかったにも関わらず、見た目を変えていくだけで、こんなにもレベルの高い敵と戦うことができる。

よし!こんなにも凄まじい手段はないぞ!
そして味をしめた僕は、次こそは、全身にタトゥーを入れて、世間から大ひんしゅくを買い、さらなるボスのような存在の相手と対峙してやると意気込み、それを実行したか否かは、皆さまのご想像にお任せします。

この変わりばえのしない日々の連続を打開する、最も重要なこと、それは、ありとあらゆる期待を、全てかなぐり捨てるということ。

そう。期待するから、期待外れになる。
そう。期待してしまうから、期待を裏切られることになる。
ならばいっそ、期待というものを、全て捨ててみることをオススメする。

そういうと人は、
「俺なんて、そもそも会社なんてもんに、な何の期待もしてないぜ、ベイビー」
と、無頼者のように突っかかってくる輩も、おるでしょう。

しかし人は無意識に、何かを期待して生きているのです。何かを期待せずにはいられない生き物なんです。
今日一日を生きて行こうと思うのも、潜在意識の中で、今日一日に、「何かいいことないかなあ」と期待を寄せているからこそ、その足どりは前に進むのであって、それがないとするならば、そんなにも人は、前に向かって歩いて行くことができないでしょう。
だからこそ、その期待というやつを、いっそのこと、すべてかなぐり捨ててやろうじゃないか、この際。

朝起きますでしょう。電車通勤の人はまず、改札で非接触型の乗車カードがうまく反応せず、改札でトラブルになりますわな。
車で通勤してる人は、誰も横切らない小さな横断歩道の信号に何度も何度も停車を迫られますわな。挙句に、電車の通過しない踏み切りにも。
職場へと上がるエレベーターは、なぜか最上階付近で足止めを喰らっていて、なかなか降りてはこないわな。
乗ったとしても、同乗してきた他の会社の人たちが、小刻みに別の階の停止ボタンを押すもんだから、なかなか自分のオフィスの階に上げてもらえないわな。
「おはようございます」と軽い挨拶を済ませて、自席につくと、前日の残業などした人間が、勝手に自分の椅子に座ったか何かで、座椅子の高さが妙に高く上げられており、違和感と共に、一日をはじめることになりますわな。
その座椅子の高さを調整しようと、椅子の側面や底面をイジッていると、妙な油が指に付着してしまい、イヤな気持ちになりますわな。
パソコンをつけると、前日のアップデートがうまく処理できておらず、早速、見たこともないエラーに襲われますわな。
資料を作成していても、上書き保存の途中で固まってしまい、ソフトが落ちてしまいますわな。
神頼みしながら、「うまく保存できていますように!」と、手をスリスリしながら、そのファイルを開いてみると、案の定、保存できていなくて、それまで編集したりした内容は、全て消えてしまってますわな。
ランチに行くと、店が混んでて、時間を惜しみつつ並んで待つも、
「お先四名様お通ししてもよろしいでしょうか?」
などと、自分の順番を飛ばして、別のお客様がどんどん通されてしまうわな。
そうして一日の仕事を終え、さて帰ろうと、パソコンを切って、画面が真っ黒になった瞬間をまるで見計らったかのように、
「さっきの資料、ちょっとだけ手直ししてくんない?」
などと、再びパソコンを立ち上げねばならない事態に巻き込まれるわな。

と、考えてみれば、社会人生活なんて、良いことなどあるわけないんです。
給料なんてあがらないよ。ボーナスなんて、あるわけないよ。上司から認められたりなんてしないし、部下が敬ってくれるわけもない。
得意先や取引先の美男美女の担当者と、恋に落ちることなんて、まあ、ないだろうし、もちろん、出世することなんて、ありえない。
だからこそ、一旦自分の中の期待という期待の全てを葬り去ってみる。
どんなに小さな、どんなにちっぽけな、どんなに些細な期待をも、捨て去ってみる。
するとどうだろうか?これまで、特段、何も感じなかったような、小さな幸せや小さな喜びに、次から次へと気づくではありませんか?

そういえばこんなことがあった。

もう会社の中でなんて、何も期待するまいと心に誓って過ごし出すこと数日。僕の手元に、長3封筒と呼ばれる、ごくごく一般的なサイズの封筒が、お客様から郵送されてきた。

別に何の意識もせず、カッターナイフを取り出し、糊付けされてる側に刃を刺し込み、スーッと押しやると、何だろうかこの快感、あまりにも真っ直ぐ一直線に。生まれてこのかた、何度この動作をしたのか分からないくらいに繰り返しているこの行為。それなのに、その日のその切り口は、生涯で最も美しい線を描いたのである。

なんだ?今日の俺は、何か特別な能力でも身につけてしまったのだろうか?

昨日までの切り口と比べると、今日の切り口が圧倒的に凄さを増してしまった自分は、この人間離れした急成長を、他人に怪しまれやしないかと、なかばキョロキョロと挙動不審に午前中を過ごし、昼休憩の時間を迎えた。
行きつけのコンビニの中で、最も安いヤキソバと最も安いオニギリを買ってレジに並ぶ。
さあ、僕の番だ。

「お会計、二百十円です」

はい。二百十円ね。了解了解。と、サイフの中から小銭を取り出していると、なんと、二百十円というお値段は、オニギリの値段が含まれていないお値段ではないか?

こ、これは…。

俺は、ここで、二百十円を店員さんに渡すべきだろうか?それとも、正直に、オニギリのお値段が含まれていないことを申告すべきだろうか?悩む悩む悩む。
いや、待てよ。今日の俺は、カッターの切り口の美しさでもって、人間離れした急激な成長を遂げているのだった。
そう信じ、僕は、店員がそのことに急に気づくのではないかと、ヒヤヒヤしながらも、事が起きないことを祈りつつ、震える手で二百十円を手渡し、ヤキソバとオニギリの入ったビニール袋を受け取ったのであった。

社会への期待を全て捨て去った途端に、この幸せの連続。この日僕は、世界をも征服できるのでは?と、自分のこれからのハッピーな日々を想像し、抑えきれない興奮を覚えたのであった。

誰がどうやって作った仕組みか知らないけれど、僕たち私たちは、働いてお金というものを稼いで生き続けねばならない。それなしでは、到底生きてさえ行けないのである。

よく、お金が全てじゃないと励ます言葉に出会うこともあるけれど、お金がなくなると、全てを失うことだってありえる。
だから、僕たち私たちは、死ぬまで、お金を稼ぎ続けなければならない。
つまりは、働き続けなければならないのである。

そうなると、否が応にも、社会の中で人々と共存し、揉まれ、悩み、挫け、憂鬱になったり、疑問を感じたりして生きて行かねばならないということになる。
この部分だけを切り取ると、「まあ、それが社会ってもんだろう。それが働くってことだろう。それが人生ってことだろう」と割り切れなくもない。
何だか歌のワンフレーズみたいに、「嫌なことあっても、何かいいことあるさ」という具合に自分を納得させることだって、できるだろう。

しかし、勘違いすることなかれ、自称若者の諸君。
僕たち私たち君たちの、一生涯それがずっと続くんだぜ、ベイビー。

退屈な映画も、二時間ちょっとで終わるからこそ、我慢して最後まで観ることができるように、校長の朝の挨拶も、前や後ろの友達たちとふざけあっているうちに、終わることを知っているからこそ、あんな退屈な話を聞ける、もしくは聞き流せるのであって、それが一生涯続くと思ってみてよ、ほら、うんざりするでしょうが。
そう、このうんざりに、始まりはあっても、終わりはない。
ここをどれだけリアルに自分の中でイメージできるかが、今後の人生を楽しく笑って過ごせるかどうかを大きく左右するんだと思う。

つくづく思う。人は変えられない何かにぶち当たったとき、自分が変わることでしか、それをやり過ごせないんだって。
だって、変えられないことやものと対峙したときに、何もせずそこで足踏みしていると、その踏み鳴らす足音は、「ザッ、ザッ」というグラウンドの土が奏でるそれではなく、「グチッ、グチッ」と、そう、愚痴、愚痴。

竹原ピストルというシンガーの歌の歌詞に、こんなのがある。

耳を済ましてみろ
ガチガチと歯車の軋む音が
聞こえてくるだろう?
時は確実に問答無用で流れていくよ
イメージしたら
イメージできたら
即 行動しろ
躊躇するな
体勢 体哉
整えているうちに
あの世から迎えが来るぞ

そうなんだね、僕たち私たちは、やがて死ぬんだね。
こうやって退屈に包まれて、疑問に苛まれて過ごす社会人生活も、やがて死ぬことで終焉を迎えるんだね。よかったね。
って、アホみたいなことを言っている暇はない。
ほら、早く変わらないと、君が変わらないと、社会は変わってくれないよ。そして、永遠に変わってはくれないよ。
描いてみたって、理想の生活なんて、やってはこないよ。
昔みたいに景気のいい時代じゃないんだから、年功序列だってないだろうし、終身雇用だってないだろうし、となると、そこに居るだけで、やがてはたくさんの給料を貰って、美人の女性社員にお茶なんて入れてもらえるような、そんな都市伝説化したような身分には、今はもうなれないんだよ。地位も名誉も金も権力も、手にできないんだよ。

じゃあ、どうするか?
それを考えてる暇なんて、もう残されてない。
自称若者たちは、もう若者ではないから。どんどんお酒にだって弱くなっていくだろうし、こってりしたものを食べた後は、胃の調子だって悪くなるだろうし、ケガの治りだって遅いはず。
考えてる時間は、残念ながらもう残されていないので、なので、とにかくもう、動きましょう。
社会とこれまでの自分の生き様に、思いっきり反抗して、反逆の徒になり、革命を起こしましょう。

社会人生活にうんざりしてしまった、自分はまだまだ若いと思っている人たちが、これからやるべきことは、こんなことじゃないでしょうか。

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